明治維新と旧盛岡藩士桑田

明治維新の流れ

1868年(慶応3年)の大政奉還と、それに続く王政復古によって政権は江戸幕府から朝廷に移ったものの、全国の藩は封建体制のまま残っており、明治新政府は中央集権化に向けて新たな統治機構を目指します。

 

1869年(明治2年)、明治新政府は、全国の藩が所有していた土地(版)と人民(籍)を朝廷に返還させる版籍奉還を行います。藩主は華族とされ、禄は旧領の石高に応じて国から支給され、藩士との主従関係は無いものとされます。

 

1871年(明治4年)、廃藩置県によって、新政府は県令(知事)を派遣して地方統治にあたらせます。それまで統治していた旧藩主は、藩の債務と旧藩士への家禄支給を免除され、東京へ移住させられます。

 

新しい県の境界は1871年(明治4年)から数度の統合分割を経て、1889(明治22年)に今日の都道府県の版図が確定していきます。

 

盛岡藩は1876(明治9年)に現在の岩手県の版図になりました。

士族授産事業

1871年(明治4年)廃藩置県によって全国の武士たちは藩からの禄を失い、1873年(明治6年)徴兵制度導入によって武士の存在理由も薄らぎ、1876年(明治9年)廃刀令によって武士であることの誇りも失います。

 

一方、新政府は、廃藩置県後に藩主に代わって全国の武士に支給してきた禄が、国家予算の4割にも及んで負担となっていたことから、1873年(明治6年)から秩禄処分を開始し、未来永劫支払う現金の禄の代わりに一時金として高額な額面の債券を支給し、以後の禄支給を停止することにします。

武士(士族)は次第に困窮に追い込まれ、各地で反乱や一揆が起こるようになっていきます。

 

このような世情不安を除くため、士族の経済的救済を目的に全国で取り組まれた政策を『士族授産事業』といいます。

 

国有地の荒地を活用し、事業資金を提供して、養蚕・マッチ製造・靴製造・牧畜・肥料製造など多岐にわたった事業が起こされました。

 

しかし、明治後期にはほとんどの事業が失敗し、消滅していきました。


桑田共有条約書

全国各地で士族授産事業が次々と起こされる中、盛岡県は養蚕を選択しました。

 

県令(知事)は、雫石川流域の広大な原野を開墾して桑の木を植え、養蚕事業に繋げる計画としました。

1872(明治)頃から計画を練り、1875(明治)、当時の士族の賛同者1732名が、桑田共有条約書に署名し、社員となって事業を開始しました。

 

桑田共有条約書には、南部家からは版籍奉還の際に士族授産事業資金として賜った予備金10万貫と下賜金1万貫、島県令からは仙北町村から上厨川村にかけての官有地、各社員からは自蓄の金員を供出して事業資金にしたと記されています。

 

これが、今日の旧盛岡藩士桑田の始まりです。

 

条約書には、桑田創設の趣意と目的、24か条に渡る運営のための諸規定、1732名の署名押印が残されています。

盛岡の養蚕

古くは1822(文政5) 12代藩主南部利用(としもち)公が20歳の時、養蚕と桑の木の植付けを奨励した記録が残っています。

 

また、明治の初めに藩士菊池金吾が現在の中ノ橋たもとの 『プラザおでっせ』 辺りに機織場を起こし、島県令(知事)と共に婦女子や旧藩士などの就業の場として育成を図ったことがありました。

県がこの事業を引き継ぎましたが、産業といえるまでには発展しませんでした。

  

大正に入って県は官民共同で岩手農蚕株式会社を立上げ、人絹(化繊)が席巻するようになる2次大戦後までの間、養蚕事業が県の経済に大いに貢献する時代がありました。

この時、藩士桑田の養蚕が寄与したかどうかは定かではありません。 

 

昭和30年代、桑の巨木に登って食べる甘酸っぱい桑の実は、近隣の子供の楽しみとなっていました。


盛岡藩と戊辰戦争

1868(慶応)1月に始まった旧幕府軍と新政府軍の戦いは、同じ年の月五稜郭の戦いまで続く戊辰戦争に拡大していきます。

 

盛岡藩は、旧幕府軍と新政府軍のどちらに付くか藩論が割れましたが、京都や新政府軍の様子を見て帰った筆頭家老楢山佐渡(ならやまさど)の判断で新政府軍と対峙することになり、奥羽列藩同盟を離脱した秋田藩に宣戦布告します。

 

緒戦は優勢に進みましたが、新政府軍の援軍が加わるにつれ劣勢となり、終には降伏します。

 

藩主利剛(としひさ)公は謹慎。

跡を継いだ15代藩主利恭(としゆき・14歳)公は、13万石に減俸の上、仙台領白石に移封を命じられます。

楢山佐渡は、戦争の首謀者として処刑されました。

利恭公は重臣や領民の請願もあり、間もなく70万両という多額の献納を条件に 盛岡復帰が許されます。

 

しかし、疲弊しきった藩を立て直すことはできず、1870(明治)7月、他藩に先駆けて版籍奉還し、盛岡藩の終焉を迎えます。


利恭公は東京へ移住後、くにづくりのため私財で英語学校『共慣義塾』を創設して盛岡藩士の子弟らの育成に努め、共慣義塾は、原敬や新渡戸稲造のほか、他藩出身の犬養毅ら多くの人材を輩出しました。

 

早稲田大学の初代校長大隈英麿(ひでまろ)は、大隈重信公の娘婿となった南部利恭公の実の弟にあたるということです。

 

盛岡城 (不来方城)

1598年(慶長3年)南部信直(のぶなお)公により築城が開始され、子の利直(としなお)公が完成させ、初代盛岡藩主となって以降、幕末まで南部氏の居城となった城です。

 

東北の石垣名城と謳われるように、地元産の花崗岩を積み上げた石垣の美しさが特徴で日本100名城に選ばれています。

戊辰戦争で戦場になることはありませんでしたが、建物が老朽化していたことで新政府も利用を断念し、1875年(明治8年)取り壊してしまいました。

柱や梁の材木は、建築資材として城下の寺社や商家へ売却され、再利用されました。

 

その後、1906年(明治39年)に岩手公園として整備され、現在では市民や観光客の憩いの場となっています。

公園の正式名称は岩手公園ですが、公園化100周年を記念し、2006年(平成18年)に盛岡城郭公園の愛称が付けられました。


石川啄木が盛岡中学(現在の盛岡第一高等学校)在校時に詠んだとされる

公園の お城の草に 寝ころびて

  空に吸われし 十五の心

は、あまりにも有名です。 

 

公園内には歌碑があります。